令和○年(ワ)第○○○○号
損害賠償請求事件
原告 ○○ ○○
被告 大阪府 外2名
陳 述 書
令和4年3月10日
大阪地方裁判所堺支部 御中
大阪府立○○学校 教諭 Z
1 はじめに
私は、平成25年4月に大阪府教員として任用され、平成25年4月から平成29年3月まで大阪府立泉大津高等学校に教諭として勤務していました。平成29年4月から大阪府立●●●●学校に勤務しています。
本件陳述書では、原告が平成28年度に赴任する前の府立泉大津高校の状況について陳述します。私自身も勤務先が原因で適応障害を発症するなど、府立泉大津高校が異常な勤務環境であった事実に間違いはありません。
2 私が在籍時の泉大津高校の様子
(1)平成25年度
私は新任教師として、国語科の河合教諭の指導の下、河合教諭、田中綾香教諭とともに1年生の現代文と古典の授業をしました。分掌は総務部で、PTAの文化祭担当、部活顧問は吹奏楽部と地理歴史研究部でした。
学校の様子は騒がしい雰囲気でした。この年は中学生から「ヤンキーの学校」「怖い学校」と言われていました。女子のスカートはかなり短く、リボンはつけないのが普通、メイクはほぼ全員がしていて派手で、ネイルは10センチくらいの女子もいて、髪がシルバー、緑、ピンクの生徒が3年生には20人以上いました。生徒会の活動で、スラックス運動と言って、女子でスラックスをはいている子が10人くらいいました。それを藤原教諭と田中淑子教諭は「あれはおかしい。性同一性障害だ。レズだ」と言っていました。服装指導などはしていませんでした。
当時の3年生が荒れていて、特に3年1組と3年2組は生徒が全く教室に入らず、中庭や廊下をうろうろしていました。3年1組の担任は芝本教諭で、怒鳴ったり強く言うことはできないタイプであることを、学校中の教師でバカにしていました。特に平島教諭、三輪教諭が芝本教諭のことを職員室において大声で非難していました。秋頃、三輪先生が職員室で「3年2組の生徒○○(覚えていません)に、『僕、しんどいんです、僕はおかしいんでしょうか』と言われたので、『それなら病院に行きなさい』と言ったら『先生が僕に病院に行けと言った、人権侵害だ』と言うんですよ、本当にどう相手してよいかわからん」と言っていました。それからその生徒は毎日叫びながら廊下を歩いて、廊下の壁や、置いてある傘などに手あたり次第に自分の名前を油性マジックで書くので、他の生徒から被害の訴えがありました。それについては誰にも生徒指導はしていません。担任である芝本先生の悪口をみんなで言っていただけです。
私は部活顧問で芝本教諭と顔を合わせるので、「大丈夫ですか」と話しかけたことがありますが、芝本教諭は「まあ、もっとひどくなったらガツンと叱ってやりますよ」と弱弱しく笑っていました。
山田講師と宇野講師と前田敦子講師が3年生担当で、毎日、3年生が荒れていることと学力がないことを言っていました。私はほぼずっと3階の国語準備室にいて、よく様子が見えました。普段は毎日準備室の自席で教材研究をし、宇野講師、樋口教諭、中村教諭と話すことが多かったです。昼休みはほとんど図書室にいました。私は佐原教諭と高校が一緒であったため面識があり、佐原教諭は私によく話しかけに来ていました。40歳以下の女性は、齊川教諭、佐原教諭、金登教諭、Z(私)、貴志教諭の5人だったので、そのメンバーで出かけたこともあります。金登教諭が一番優しく穏やかで、部屋が国語科準備室の隣だったので、私から話しに行くときもありました。
最初の頃は、初任者教員研修には貴志教諭と一緒に行っていました。一緒に実習やレポートを書く必要があり、貴志教諭は時々国語準備室に話しに来ていました。佐原教諭がよく来て、学校の教師の噂話などを話しに来ました。
4月当初に、佐原教諭から「実習助手の佐々木さんは虚言癖があるから信じないほうが良い」と言われました。研修のレポート課題などで化学準備室に貴志教諭に打ち合わせに行くので、佐々木さんと話すことがありましたが、「家は岸和田の旅館の娘だったから、今でも休みの日は着物を着る」「家に池がある」「弟の子供2人を20歳の時に引き取って育てていて、19歳から実習助手してるから、1年目から赤ちゃんを連れてきて働いていた」「近所の家出少女も家にいるから、うちには娘が3人いる」「娘は大学を出ている」などを話していました。これらの内容は半分以上は嘘らしいです。化学準備室にはソファ、オーブン、コンロ、冷蔵庫、ミキサーなど家電が充実していて、よく勤務時間中に佐々木さんはケーキを焼いたり、夕食のおかずを煮炊きしていて、時々職員室でふるまっていました。また、小型犬を車に乗せて連れてきていて、抱っこしていました。他にも、半年間くらいかけてミシンで娘のウエディングドレスを縫っており、ミッキーの刺繍を200個入れたと見せてくれました。佐々木さんは、若手の男性教師たちに「お母さん」と呼ばせていました。私は実際に片畑教諭にそう言っているのを見ました。貴志教諭が私に「お母さんと呼ばせているのはおかしいやろ、気持ち悪い」と言いに来ていました。そう呼んでいるのは黒岩講師、森岡教諭、貴志教諭、近藤教諭でした。
木村校長と中谷教頭は仲が良いのか悪いのか分かりませんが、毎日言い合いを職員室でしていました。お互いに口を利かないと決めている日は、同じ部屋にいても、貴志教諭を間に挟み、伝言ゲームで会話していました。
木村校長は岬高校から赴任していて、天理大学卒業の体育科出身で、朝7時からグラウンドを走っていて、昼間は水泳部の部室で筋トレをしていました。毎日ランニングシャツで短パンで、香水の匂いが強く強面でした。「バツ3(離婚経験が3回)で今は彼女が3人!」と言っては彼女と職員室において電話で話したりしていて、近寄りがたかったです。相談に乗ってくれますし、細かく記録も取る人でしたが、押しが強くて誰も逆らえない感じでした。
中谷教頭は桃谷高校から赴任していて、長身で赤いおかっぱ、いつも流行色のミニスカートを着ていて、現代的な感覚の人だと思いました。クラスの生徒相談の会議にも時々参加して、生徒寄りの考えの人でした。「早く帰りなさい」とよく呼び掛けていました。私は部活で夜残っている時に心配されました。教頭は三輪教諭を気に入っていて、いろんな教師をよく教頭席に呼んでいました。森岡教諭、林首席が教頭を嫌い、ミニスカートを悪く言っていました。学校全体に、教頭を馬鹿にする空気がありました。教頭が、人権や発達障害や体調不良の生徒に寄り添う発言をすると、全体から冷笑と反発がありました。
泉大津高校は実教出版の日本史Bの教科書を例年採択していたところ、慰安婦に関する記述が1文(2行)だけ書かれているのを当時の橋下知事が問題だと大騒ぎしました。6〜8月、さらに3月にかけて、なぜその教科書を採択するのかの理由書を作らされ、「毎日毎日、社会科教師が1人ずつ校長室に呼ばれて話をしている」「別の教科書に変えないかと言われている」と会議で平島教諭が言いました。平島教諭は「今、○○先生が呼ばれたぞー!」など、大声で実況しながら廊下を走っていました。校長室もドアを開けていて、毎日言い合いをし続けていました。8月の会議で校長が、手元の紙を見ながら「知事から来た手紙で、まあ書いてあることは、この教科書を選んでるのはうちを含めてあと2校や。一回、維新の若い議員4〜5人車に乗せて学校見に行かなあかんな、ってことが書いてあるわ」と言いました。平島教諭は立ち上がって、「バリケードを作れー!」と叫んでいました。たびたびこの話で臨時職員会が開かれ、3月には、教科書の注釈か副読本として、必ず生徒に授業で読ませるようにという指示のもと、A4用紙4枚ほどが配られました。
8月の夏休みに齊川教諭と佐原教諭が話しにきて、「去年はやばかった。ボクシング強い子がいじめっこを守ったら、報復で呼び出されて10人に棒などで殴られ、脳障害が残った。車椅子でまともに歩けないし喋れないし目も合わないのを家庭訪問したけど、お母さんポカーンとしてて話を大きくせんかったから黙って帰ってきたけど、あんなん揉み消したらあかんよなぁ」と言っていました。
同じく夏休みには貴志教諭が話しに来て、「去年のうちのポジションの新任は準備室でアダルトビデオを見ていて、そこに女子生徒が入ってきて、それを見て家でお母さんに話して管理職に言ってきて夏休み終わりに自分から退職したらしいで。やばいやろ。ほんで机開けたら制服と水着の女子の写真がいっぱい入っててんって」と言っていました。
私は、その前年に旧第4学区(大阪府堺市以南)で7人の新任教員が辞めていて、泉大津高校はパワハラ校長で有名であること、退職教員7人中5名が国語であること、夏の時点で隣の高校の同期の国語がやくざの保護者対応で一晩生徒の家に監禁されて、学校は誰も助けずに職を辞めたことを知っていましたから、まあいくらでもありうるだろうなと聞いていました。
9月ごろ、3年生の生徒3名が1時間目に授業中に抜け出し、職員駐輪場近辺で脱法ハーブを吸い、意識を失い倒れました。しばらく誰も気づかず、3時間目に発見されて救急車で運ばれました。2時間発見されなかったこと、麻薬であること(誤報です)が翌日の産経新聞に載り、マスコミが門に来ていました。職員会議で校長は、箝口令を敷きました。また、今後は119通報するとマスコミに情報が入るので、消防署のダイヤルに直接かけるように指示されました。生徒3名は誰なのか、どう指導するのかなどは知らされることなく、3年生の授業をしている国語科の先生たちも分からないまま、うやむやで終わりました。脱法ハーブは、「岸和田のだんじりのつながりでもらった」と生徒が警察に話したので、後日に警察が来て、「先生たちは地域をパトロールしないといけない」と言われ、夜の10時に中谷教頭に私が呼ばれ、田中太郎教諭と警察の人と一緒に、和泉府中近辺の高架下の駐車場に連れていかれ、「こういうところでハーブの受け渡しが行われる」「先生はよく知っておくように」と説明されました。私は生徒指導部でもなく3年生も指導していないので、なぜ呼ばれたか分かりませんでした。
11月に、人権教育として原発で壊れたピアノを修復してリサイタルをしているピアニストを学校に招いてコンサートをしました。これは平島教諭の案です。このことについて、3年生に旧村(現・高石市綾園?)の村長の息子1人と、その取り巻き3人が、「そのピアニストが在日3世だ」と調べて、「当日は休むからコンサート代を返せ」「そんな人を公教育で呼ぶのは許されない」と4人の保護者が抗議しに何度も学校に来ました。コンサート当日は4人とも休み、代金も返却しました。それから2月の卒業まで4か月間、4人の保護者が交代で毎日授業中の時間に合わせて、右翼のスピーカーのついた車で学校の周りを巡回し続けました。普段はその車はだんじり倉庫に隠してあると生徒は言っていたそうです。この同じメンバー4人が、指定校推薦やAO入試で大学に受かった女子を毎日朝からずっと囲み、「女は勉強なんかいらん、大学なんか行くな」「女は16になったら子供産んでれば良い」「学校来るな」という内容のことを言い続け、一人ずつ学校に来られなくさせる、ということをしていました。この当時、泉大津高校から大学に行く生徒はごく少数で、大半が専門学校からの3か月後には辞めていて、学校に遊びに来たりする、という感じでした。これは生徒指導から、被害を受けている女子側の保護者に、卒業まで学校に来ないように、とお願いして終わっていると聞いています。会議や全体の場での報告などはありませんでした。このことについては、平島教諭が私に、「Zさんも大学出てる若い女性だから、3年生のところには近づいたらあかんで」と言って、状況を教えてくれました。平島教諭とは地理歴史研究部で、よく話をしたり、黒岩先生と生徒とで、城などのフィールドワークに行っていました。
10月くらいから山田講師が前田敦子講師をいじめるようになりました。前田敦子講師は、配偶者が日清食品に勤めていて、時々差し入れとして国語科でカップラーメンを配ってくれたり、「会社の行事で妻同伴のオペラコンサートが毎月ある」などと色々話したのが気に入らなかったんだと思います。山田講師はもともと感情はかなり激しく、すぐに怒ります。「離婚していて、もともとは運送会社の社長夫人だった」「裕福な暮らしをしていた」とよく話していました。山田講師は、3年生のテストを作るのに、前田敦子講師に問題を作らせては、激しくけなして作り直させる、採点を押し付けて、勤務日以外にも来させる、というのを目撃しました。前田敦子講師が泣いているのも見ました。前田敦子講師は「非常勤をやめる」とも言っていました。山田講師は不妊治療が原因で離婚したと私に言っていて、実習助手の佐々木さんと話したときに佐々木さんの娘のことを聞き、「弟さんのお嫁さんから赤ちゃんを取りあげるなんて許せない!」と怒り続け、宇野講師を引っ張って佐々木さんに文句を言いに行っていた時期がありました。
山田講師は校内外で洗剤の販売をしていて、4月くらいから、私、宇野講師、佐々木さん、他に50歳代の女性の先生のところに洗剤の話に行っていて、「飲める洗剤」と言って、コップの水に溶かして飲んで見せていました。それを見た貴志教諭が「マルチ(商法)やん」とあちこちで言いふらしているのを警戒して、山田講師は貴志教諭がいない時を探って佐々木さんに会いに行っていて、最初から貴志教諭を煙たがっていました。
宇野講師は落ち着いた人で、毎日漢文の勉強と自分の小説を書くのに、黙って考え込んでいることが多かったです。堺工業高校から赴任していて、「前任校では毎日殴られていたから夏でもダウンコートを着ていたのよ」「泉大津は勉強ができないけどかっこいい子が多いからうれしい」「教員生活の締めにお口直しなの」と言って、生徒とよく話をして楽しそうでした。宇野講師と山田講師は、私がいない時はずっとホストクラブの話をしていて、二人で行っているようでした。そういった経緯のため、私一人の時しか誰も国語準備室には来ませんでした。
7月に、宇野講師が合コンを企画してくれて、私と英語科の松浪教諭が誘われて行きました。その話を小耳に入れた英語科の59歳の女性の阪上教諭が校長に伝えて、私と松浪教諭がそれぞれ校長室に呼ばれて、「教師だから合コンはよくない」「絶対に生徒にバレないように」と注意がありました。
1月頃にバドミントン部で、「山田先生が計算をすると部費の残額が合わない」ということがあり、それまで経費を管理していた貴志先生を山田講師が強く攻撃しました。現金を空き缶に入れて貴志教諭の自席で管理しているようでした。貴志教諭はいつも、誰もいない時に国語準備室に来てぼやいていて、この件については泣いていました。貴志教諭が校長に部費が合わないとことを相談したことについて山田講師は「先に顧問同士で話すべきでしょ」と怒り、山田講師は貴志教諭を見るたびに舌打ちしたり、にらみつけて、悪口を聞こえるように言って攻撃していました。山田講師は、年度末には「泉大津は最悪!こんな学校出て行ってやるわ!」と言って、挨拶もなくいなくなりました。
【部活顧問として】
私は吹奏楽部の顧問で、顧問は芝本教諭、田中綾香教諭、八十川教諭、Z(私)の4人です。生徒は7名程度でした。
毎週水曜日と、土日に朝7時半に学校の鍵を開けて、夜7時半に鍵を閉めるように、春に田中綾香教諭に指示されました。田中綾香教諭は、音楽の芝本教諭を「天使」と呼び、尊敬しているようでした。「天使が本当にやさしくて、毎日生徒に練習させてあげてるので私たちはできるだけサポートしましょうね」と言われました。最初は顧問間で土日を割り振っていましたが、7月くらいから、田中綾香教諭は結婚準備があるからと言って土日は私に鍵開けをさせるようになりました。夏休みの合宿も自腹で参加させられました。八十川教諭は、「家で介護があるから」と断りながらも土日に入ってくれることもありました。私は就職前から祖母の介護を毎日していて、早く家に帰りたかったし、土日も忙しく部活顧問が負担でした。祖母と過ごす時間が失われました。また、吹奏楽部は商店街で集金活動(店の宣伝広告を顧問が作る代わりに3千〜1万円をもらう行為)をしていて、高額な金銭を顧問が預かる必要があって、さらにその店の広告を作らないといけなくて嫌でした。これは田中綾香教諭がしていました。
秋頃に私が実習助手の佐々木さんと話したときに「顧問がつらい」と言ったところ、「みんなしてんで。貴志さんもバドミントンで来てるで。若いんやから当たり前や」と言われました。八十川教諭と相談して、八十川先生も吹奏楽部顧問を下りたいことや、田中先生は私に仕事を引き継がせたいことを知り、「このままではもたない」「危ない」「教師を続けられない」と感じ、2月に手芸部を新しく作って顧問になりました。
【総務部として】
私はPTA文化委員担当で、主な仕事は月に1〜2回、土曜日に家庭科室で保護者20名ほどと一緒に手芸をすることと、文化祭でPTAバザーの仕事でした。土曜日にそんな活動をしていることを管理職は把握しておらず、土曜日出勤の勤務振替を中谷教頭に申請したら、「なんで新任が土曜日に来るんですか。認められません」と最初は取り合ってもらえず、河合教諭から言ってもらって振替休暇をもらいました。PTAバザーの仕事は順調にバザー品が集まってましたが、バザー前日の準備が整った日に、20年くらい前の卒業生の親で、ずっとPTA会長をしている女性が来て、黙って電気ポットや家電などの商品を持って帰ったそうです。そうした情報を準備を手伝ってくれた保護者から聞きました。このことを校長に相談しましたが、校長から総務部に確認すると、毎年同じ状況であることが判明しました。店番の保護者間では不満が多く、私はそれから年度末まで保護者の不満を聞きました。
4月に学校パンフレットを新しくする話があり、それは総務部の仕事になりました。私は30ほどあった部活動の写真を撮るようにとだけ言われ、2か月ほどかけて、部活をしている所へ行き写真をたくさん撮りました。秋ごろに、いよいよ写真を使うという段になって、「生徒の顔が映ったものは使えない」「誰やこんな写真撮ったんは。あほちゃうか」と会議で木村校長に言われました。新任で4月に、「写真を撮れ」としか指示が無かったのに、納得いかないと感じました。
8月頃に、生徒が痴漢に遭うことが続き、泉大津警察の人が学校に来ました。木村校長が会議で「泉大津警察の人に学校を見てもらったら、『女子のスカートが短いから痴漢に遭うんだ』『ちゃんと学校のほうで指導せえ』と言われました。スカートの指導をします。生徒指導部で案を考えてもらいます」と話しました。そこから、生徒指導部の案では、スカートを新しく作り直して、短くできないようにすることになりました。この時の制服は3年前にファッションショーをしてPTAと生徒全員で投票して作ったもので、その仕事をしたのが総務部だったので、河合教諭は最後まで制服改変に反対していました。
(2)平成26年度
私は1年担任、分掌は保健部、部活顧問は手芸部です。
前年度までは学校は年配が多く、40歳前後の森岡教諭、林首席、菅教諭がまだ若手扱いで、強い意見を出せるのは平島教諭、三輪教諭の50代後半グループでしたが、この年に浄閑教諭(体育・29歳)、山内講師(数学・28歳)、筒井教諭(理科新規採用・28歳)、片畑教諭(国語新規採用・23歳)、が入ってきて、だいぶ雰囲気が変わりました。
片畑教諭は年齢も離れていて、性格も周りと打ち解けないので周囲から除外され、浄閑教諭、筒井教諭、山内講師、近藤教諭(英語・28歳)、黒岩講師(社会・28歳)の5人が生徒指導ということもありグループを作っていました。毎日朝に集まって話していて、私の席に座って話しているので私は自席に座れない時も多くありました。
中でも、この5人の中だと浄閑教諭が唯一の2校目経験者で、前任校が岬高校であり、「俺は校長と同じ体育科出身で校長のお気に入りだ」、「俺の意見に従え」という態度がありありと見えました。「一日でも誕生日が早ければ先輩」とよく言っていて、この5人の中だと浄閑教諭が最年長になるので、リーダーになれることを狙ってこのグループを作った感じでした。
新規採用の筒井教諭は「前職は東京で働いていた」「部下に怒りまくって嫌われて会社にいられなくなった」と自分で言い、基本的に周りに対して攻撃的で円滑なコミュニケーションのできない人で、最初から同じ理科教員である貴志教諭を攻撃していました。
山内講師は5人の中では最年少で、前職は営業職の、明るくて普通の人でした。山内講師は、頭が禿げていることとお腹が出ていることを浄閑教諭と近藤教諭に毎日からかわれていました。
近藤教諭はイケメンでマッチョでナルシストでモラハラ体質です。背が低いことを浄閑教諭にからかわれていました。貴志教諭や佐原教諭などの女性にあたりが強く、私や美術の森下講師のようにジャージを着ていない若い女性教師には優しく、とにかく相手で態度を変える人でした。
黒岩講師は講師歴が長く、オタク系で、このグループに近づきたくなさそうでした。誰とでもフレンドリーな人でした。
この5人に田中太郎教諭、木村校長を加えて休日はゴルフに行っているらしく、学校で毎日ゴルフの話をしていました。また、近藤教諭と山内講師は毎週合コンの話をしていました。職員室内で「パイパン(陰部を剃毛した)にした!見てみて!」と大声で言ったりするなど、かなり聞いていられない内容で、朝から職員室で二人で腰を振って合コンの女性とのことを再現したり、浄閑教諭は風俗店の話や、「校長のお気に入りだ」「腰巾着だ」と自分で言いまくり、同じ岬高校から来た林首席や木村校長と一緒になって中谷教頭を攻撃していました。とにかく朝の職員室は不快でした。
山内講師が座って仕事をしているところを、浄閑教諭がスマホで後ろから後頭部を撮影して「禿げてますよ」と写真を本人に見せ、「見てみて」と近藤教諭に見せる、というのを春頃には繰り返していました。4月30日の山内講師の誕生日には、山内講師の席に先に育毛剤を置いておき、山内講師が見つけて手に取った時に浄閑教諭と近藤教諭が走ってきて「そんなに思い詰めてたんですか」とからかう、ということを朝礼中も延々と繰り返し、しばらくネタにしていじめていました。木村校長はそれを見ていて、「あいつらまたじゃれとるわ。仲良いのう」と言っただけでした。1年の学年団は顔をしかめて無視するか、うっすら笑う人がいるくらいでした。
春の体育祭が終了した後の若手職員の飲み会では、筒井教諭と山内講師と浄閑教諭が、「入学式の時から女子のパンツ見れてびっくりした。嬉しい」という内容や、生徒の悪口ばかりを話していました。そこに林首席も加わって、「各クラスのかわいい女子ランキング」など作っていました。
この時は近藤教諭が不参加だったので近藤教諭の悪口でも盛り上がっていました。「近藤はこういう話題怒るから」といって、近藤教諭が不参加であることを良いことに、生徒を対象にした猥談をし続けていました。貴志教諭が生徒情報に詳しく、「誰と誰が付き合ってる。こいつらは来年離しましょう」という話題ばかりで、私は会話に参加できず、黒岩講師や金登教諭と一緒にいました。森岡教諭がよく若手の飲み会に参加してはお金を出してくれていたはずです。
この年度の入学生(69期生)は入試の定員がぴったりで、少し学力がしんどい生徒が多かったです。生徒指導部が一新され、2・3年は放置するが1年は厳しくするという方針でした。貴志教諭、近藤教諭は金髪でしたが黒髪に染めるように校長に言われ、教務部や進路指導部を希望していたにもかかわらず生徒指導部になったと嫌がっていました。私以外の若手はほぼ全員が生徒指導部にされました。入学の時に生徒の写真を撮り、その写真よりも髪色が明るくなったら黒く染め直させるという指導で、美容室にある髪のサンプル(ヘアカラーサンプル)と生徒写真を持ち歩いて、授業中やテスト中に教師が生徒の髪にサンプルを当てて比べ、後で呼び出して指導していました。また、スカート丈の指導も始まりました。私のクラスの生徒は5人くらいが1年間指導され続け、スカートを5枚買った生徒や、毎日呼び出されるのを苦にして精神科に通った生徒もいました。4月から、私は朝8時15分くらいには職員室に行っていましたが、職員室前で生徒指導部の田中太郎教諭、近藤教諭、山内講師、貴志教諭、浄閑教諭が生徒を呼び出して、罰として原稿用紙いっぱいに漢字を書かせており、私はたまに田中太郎教諭から「生徒にメイク禁止にしてる手前、Z先生がメイクしたりスカートはいてくるのは指導しづらいねん」と言われました。田中淑子教諭は、廊下をうろうろして、メイクやスカートの短い女子につきまとって「メイクしたって顔は変われへんねんぞ」「ようそんな太い足出せるわ」と毎朝言っていました。それを校長は「良くやってる。がんばっている」と言っていました。2・3年生には指導がなく、派手なままだったので1年生の女子から反発が強く、生徒指導の先生の授業を聞かなかったり、大声で悪口を言うなどが続きました。放課後は「男性の教師だけで密室には入れない」という理由で、男性の生徒指導部4人、と私、生徒1人ずつで生徒指導室で話をして、漢字指導(罰として原稿用紙いっぱいに漢字を書かせるもの)や反省文を書かせていました。事前の打ち合わせで、近藤教諭が厳しく怒る役、浄閑教諭と山内講師が女子をなだめる役と決めているようでした。
近藤教諭、山内講師は怒鳴らず、こんこんと諭していましたが、近藤教諭は見た目が良いので入試で見て憧れた女子たちが多く、「想像と違った」とショックを受けて毎日泣くので、生徒は指導内容を受けいれる状態ではなく、放課後はだいたい私と女子で泣き止むまで1時間くらい生徒指導室にいました。その後、反省文や漢字を書かせていましたが、かわいそうなのと、反省文は私が嫌いなので、「私が読み上げた文章を何も考えずに写せ」と言って書かせていました。保護者呼び出しも何度もしましたが、生徒以上に話に納得されず、近藤教諭を指名して他の教師とは口を利かない態度で大変でした。
7月に私が1日体調不良で休んだ時に、次の日に職員室に行くと保護者が私の席にいて、「夜彼氏とワールドカップ見てて風邪ひいたんやろ!」「ネイルしたりしてありえへん!」と騒ぎ、近藤教諭を呼び出したりしていました。その時は生徒が「何おかん学校来てんねん。この先生はなぁ、サッカー見るようなタイプちゃうんや、帰れ!」と言って収めていました。生徒指導で呼び出している女子たちの保護者は看護師のシングルマザー保護者グループで仲が良く、夜勤明けに学校に来たりがありました。ほかの教師たちが止めに入ることも助けに入ることもありませんでした。
6〜7月くらいから近藤先生がしんどそうにしていいました。「本当は放課後は補習や勉強を見たい」「進路指導がしたい」「放課後は貴志さんが消える(早く帰る)し、授業の準備もできない」「生徒に嫌われるなんて初めて」だ、というような内容でした。やがて、「Z先生のクラスの子が生徒指導受けてるんだから、朝8時から漢字指導にZ先生も来ないとあかんよ」などと毎日言うようになり始めました。「無意味に毎日同じ漢字指導させるのも時間の無駄だ」とぼやいていたので、打合せをして、私がその次の漢字テストの漢字問題プリントを作って近藤先生に渡すようにしました。
中学時の野球部のボール事故のせいで脳腫瘍があり、もうすぐ亡くなることが分かっている生徒が私のクラスにいました。最後の本人の希望が「学校に通うこと」「野球部をすること」で、徐々に耳が聞こえず目も見えなくなって会話が遅れ、6月から野球部内でいじめにあっていました。また同じ頃、野球部でバッティング時に使用する保護ネット15万円の予算希望を顧問の田中太郎教諭が申し出てきて、校長、藤原教諭、田中太郎教諭で勝手に決めて買ったようです。私は後から田中太郎教諭に、買ってあげたと聞きました。こうした経緯のなか、先程のいじめ対応や保護者対応などで忙しいのに「担任なら休みの日に野球部を見に来い、買ったネットも見に来て礼を言え」と何度も田中太郎教諭に怒鳴られました。当該生徒は秋ごろに亡くなり、学年みんなで葬式に行きました。このことを学年会議で貴志教諭と三島教諭が茶化して、藤原教諭が怒り、物を投げて会議を中止にしていました。
やがて貴志教諭が17時半か18時くらいに帰るときに「直帰しまーす」とわざわざ大声で職員室で言って帰るようになりました。周囲は「5時に帰るのはありえへんでしょ」と言ったりしていました。冗談で近藤教諭が貴志教諭に「帰るの早くないですか」などと笑いかけていましたが、貴志教諭が帰った後は貴志教諭の悪口を言っており、仲が悪そうでした。私は17時に帰りたいので、16時半ころから職員室にはおらずに国語準備室から帰っていました。
7月に国語準備室に貴志教諭が来て雑談をする中で、「修学旅行の下見に行く予定だが、近藤先生と二人で行くのは息が詰まりそうだ」「春から精神科に通って薬を飲んでいる」と話しました。私が修学旅行係に変更して下見に行くことにしました。
三島教諭(1年担任・家庭科・54歳)が貴志教諭を気に入って、「岸和田の子やね」と言っては、事務室の女性と3人でよく出かけたり昼食に出かけていました。ケーキをよく3人で食べていました。私はこの事務員に嫌がらせされていました。赴任した時から、何の接点も無いのに、何度言っても事務書類の名前を間違えられ、「あんたは岸和田の子とちゃうからな」と言われたりしました。度々昼休みに抜けて会議に参加しないのを学年主任の藤原教諭が怒っていました。
三島教諭は朝のホームルームをLINEで済ませ、教室には行きませんでした。いつもディズニーツムツムを職員室でしていました。貴志教諭が私のところに来て、三島教諭の悪口と、「いつもツムツムのハートを送ってきて、一緒に遊ぼうって来るから困っている」と言っていました。生徒がホームルームの時間中、廊下に出るので他の担任が学年主任に言いに行きましたが、藤原教諭は、三島教諭には何も言いませんでした。
秋くらいには学年の雰囲気は悪くなっており、それぞれが公然と悪口を言っていました。私、太田教諭、金登教諭ぐらいが言わない方でした。学年主任の藤原教諭が学年朝の会を「(勤務開始時間よりも前の)8時20分から始めたい」、と提案してもみんな嫌がり、主任が一人で大声で朝の会をしていました。藤原教諭は大声で威圧的で誰からも嫌われていました。職員机にゴミを積み上げて、通勤用の自転車や雨合羽も机に積み、廊下で仕事をしていました。国語準備室では、誰も人を悪く言わないのに藤原教諭だけは嫌われていました。「あの人はしんどい高校に行ったことがない」「体と声が大きいから、いつも自分の意見を押し通してきたでしょ」と中村教諭が言っていました。一緒に国語を教えるのはつらかったです。学年で同じ授業をするにも打ち合わせはなく、作品を藤原教諭独自の解釈でテストを作るので、残りの私と松本教諭も正答できず、それを「え!国語の先生が知らない!答えられない!?」と大騒ぎするので相手にしたくありませんでした。また、時間外にしつこく話しかけてくるのも迷惑でした。
学年間でそれぞれが仲が悪いのを金登教諭が間に入ってくれていました。秋ごろ、生徒が山内教諭に、「金登教諭が情報の先生(楠本教諭)とデートしているのを見た」と相談して、山内講師、近藤教諭、浄閑教諭が金登教諭を攻撃するようになりました。「金登教諭が楠本教諭(情報・36歳)と不倫しているだろう」というのは私を含め数人は気づいていましたが、二人とも良い人で、楠本教諭の方はもう離婚調停中なので、これまでは誰も噂にしていませんでした。
2月に学年末の成績会議と進級判定があり、私のクラスのテニス部の男子生徒(Tさん)が進級できなさそうな成績でしたが、テニスが非常に強く彼のおかげで試合に勝ち進んでいるらしく、顧問の森岡教諭が私のところに何度も来て、「何とか進級できないか、各教科の担当にお願いに行ってほしい」と言うので私は各教科の先生を周りました。結局、ほとんどの教科で不可だったのですが、英語は救済してあげたい人と反対派で揉めたらしく、近藤教諭が反対派で孤立したらしいです。国語と古典(私、藤原教諭、松本教諭が担当)では可をつけたのを、「不正だ。この子はどうやっても落ちるはずだ」と近藤教諭にその後1年間言われ続け、「魔法使い」と呼ばれました。国語科会議では、担当者間で話し合って成績を決めることになっており、ちゃんと話し合って決めているのに、そのように言われていました。
(3)平成27年度
私は2年担任、分掌は保健部、部活顧問は手芸部でした。
学年の英語科の近藤教諭、戸山教諭(50歳代)、長川講師(30歳代)、林首席の4人で、ずっと大声で喧嘩していました。近藤教諭が長川講師を叱りつけ、それを戸山教諭が止めるというのを頻繁に見ました。林首席が「誰も近藤と組みたがらずにこのメンバーになった」「近藤は悪人。僕は嫌い」と言ってよく笑っていました。
貴志教諭がよく職員室で泣き、それを近藤教諭がさらに攻撃して馬鹿にし、「俺も一回だけ泣いたことあるんすよ。清水先生(41歳・女性・英語)に、『あんたはモラハラやで』って言われて」と言った時、学年団の誰も否定せずに黙り込みました。近藤教諭がいなくなった後で、山内講師が「(モラハラに)自分で気づいてないんすかね?」と言い、貴志教諭が近藤教諭の悪口を言っていました。
生徒指導は近藤教諭・山内講師がメインになり、相変わらず田中淑子先生は女子に絞って、毎朝生徒に色々声掛けしていました。学年団では三島教諭と貴志教諭が藤原教諭を無視し、藤原教諭は意固地になって大声で叫び続け、私に一日中延々と独り言を聞かせ続け、返事しないと「Z先生!」と叫び、粘着されててとても怖かったです。修学旅行のプリントを出さない生徒が私のクラスにいて、それに腹を立てたからか、それから近藤教諭は私を無視し続けるようになりました。木岡教諭が近藤教諭の副担任になりました。木岡さんは「とりあえずイケメンつけとけ」と平島教諭らの学年団から言われてこの学年に来ていて、イケメン以外には仁王立ちしてヒステリーしか起こさないので恐れられていました。コミュニケーションが難しいメンバーが勢ぞろいしていました。学年の仲はかなり悪かったです。
5月の歓送迎会で、阪上教諭が登壇して教師生活をスピーチした時に、「当時、妊娠して授業に行っていると『そんな醜い腹で神聖な教壇に立つな』と男性の教師に言われたことを覚えています」と発言すると、林首席と校長が「やれやれ、困った」と仕草をして「なんだあれは」と騒ぎ、平島先生が「ひっこめー」とブーイングして、それに乗っかった男性教員たちがブーイングに参加して阪上教諭壇上から引きずり下ろし、拍手していました。国語科の河合教諭と中村教諭はうつむいて顔をしかめているのが見えました。
この会では、浄閑教諭が山内講師の服を脱がせてパンツ一枚にし、浄閑教諭の顔のカラーコピーのお面を山内講師の頭にかぶせて、自分も服を脱いで、ライザップの物まねで「ビフォーアフター」をしました。うつむいて嫌そうにする人と、盛り上がる人がいるのを見ていました。校長と平島教諭と国語の森野教諭は大声で喜んでいました。みんながビール瓶を持って校長のところに15人くらい列を作ったり、ホテルで会をするにはすごく雰囲気が雑然としていて恥ずかしかったです。
6月に体育祭の打ち上げでは学年の飲み会があり、その後に泉北に帰る組で分かれて、林首席、近藤教諭と私で、近藤教諭がおすすめのバーに行きました。このとき、近藤教諭に抱き着かれて、「どれかの曜日に入ってほしい。椅子あいてるから、セフレになれへん?」と言われ、中百舌鳥駅のロータリーでも駅でも大声で同様に言っていました。それを後日に佐原教諭に話したら「近藤は昔合コン開いてあげたら友人4人に同じことを言った」と言っていました。
長川講師(39歳男性・英語科)がこの年に赴任してきて、「前までは会社員だった」「教師は初めて」という人でした。国語準備室に誰もいない時に私のところにきて、「近藤教諭と一緒に働くのはしんどい」と時々言っていました。しかし、「高畑先生と同い年なんですが僕のほうが若く見えますよね」など言うので私は返事がしづらく、あまり話さないようにしていました。2学期ごろ、私のクラスの女子(Kさん)が授業中に寝ていたところ、長川講師が背中をさすって起こそうとしたらしく、同じクラスの彼氏の生徒が「それはセクハラです。やめてください」と立ち上がって言ったと生徒から聞きました。その確認と、教師からKさんに謝罪をする場を作ったりをしましたが、Kさんはそれ以後授業態度が悪く度々生徒指導がありました。
また、近藤教諭の英語の授業になると過呼吸が起こる生徒が2人いて、毎日英語の授業には私か藤原教諭で車椅子を持って廊下に待機していました。何度もケース会議を開いて、校長や教頭にも参加してもらい、よく相談していました。たぶん近藤教諭はつらかったはずです。私も連日病院2人と不登校1人、生徒指導を抱えていて放課後はあまり学校にもおらず、しんどかったです。
12月には定期券をちゃんと持っているかの検査があります。近藤教諭は電車の認定を受けながら車通勤をしており、中古の黒のクラウンが自慢でよく見せていたので、生徒も職員も知っていました。校長も黙認していて、12月に検査があるから定期を持っていればよいと伝えていたと聞きました。近藤教諭にいじめられていた長川講師が年末に委員会に不正通勤のことを言ったらしく、冬休み中に調査があり、2〜3月の1か月間停職になりました。私には直接講師の先生が私のところに来て話したので知っています。近藤教諭がいない間は、林首席や森岡教諭がニヤニヤして、入試業務で顔を合わせたときに「Zっち、あいつが生徒からなんて呼ばれてたか知ってる? ティファールだよ、すぐ沸くって意味」と言ったり、喜んでいる人がたくさんいました。近藤教諭は「校長にならな教師なんかなった意味ないのに、これで校長になられへん」と言っていました。
12月末に私のクラスのYさんという女子から、朝のホームルーム終了後に「先生、見てください」と言われ、「生徒相談カード」「いじめにあっています たすけてください」と書かれたプリントを受け取りました。生徒相談カードの受け取りは担当の佐々木さんなのですぐに渡した上で、教頭に報告し、人権委員会の平島教諭にも伝え、私は午前中の授業に行きました。佐々木さんはマニュアルも自分の担当も覚えておらず、よくわからずに生徒指導部に回したそうです。マニュアルでは生徒相談係と人権委員会のメンバーで動くはずでした。昼休みに生徒相談室にYさんを呼び、私と佐々木さんで話を聞くと、図書部のグループLINEで1年生3人に強い言葉で責められ、「覚えとけよ」と言われたり、放課後に部室で本を読んでいたら2年生が先に帰ったのに気づかず、1年生3人と一緒になり、まずいと思ってドアの所に行ったら突き飛ばされてカバンを取られ、自転車のカギを取られて教室に外からカギをかけられて閉じ込められ泣いていたら40分くらい経ってからカギが開けられてカバンを返してもらえた、という内容でした。Yさんは1年生の名前もあまり覚えておらず、私も名前は聞いていません。ずっと泣いていて、12時半から17時くらいまで私がずっと付き添っていました。途中で保健室に移動しました。佐々木さんが生徒指導部に伝えて、5〜6時間目に1年生3人が個別に事情を聞かれ、その通りだと泣きながら認め、謝ると言い出したらしいです。Yさんは、「今は3人に会うのも怖いから、謝らなくて良い」と言って泣いていました。私がYさんが泣き止むのを待って帰して職員室に戻った時には全部終わっていて、校長に、「いじめ1件だと委員会に報告しとくわー」と言われました。「どんな指導をしたか知らない」「私から直接その1年生に話をしたい」と言いましたが、それはできないと言われました。校長は朝礼で「図書部でいじめがありました」と言っていました。次の日に教頭から報告書を作るように言われ、夕方16時に報告書を出したら、1年生徒指導の浄閑教諭は報告書を作らず「今から部活あるんすわ」といなくなり、夕方18時に私の報告書を全くコピーしたものを提出しました。私は夜にYさんの保護者と2人で面談しました。これに生徒指導部からの説明などはなかったです。
私が年明けに学校に行き、国語準備室にいるといきなり、1年担当の中村先生から「Aさんがいじめじゃないのをいじめにしたんやって? 浄閑が職員室で言いまくってたよ」と言われ、森野教諭にも「いじめをしたのはうちのクラス1人、浄閑先生のクラス2人やねん。ごめんね。浄閑先生が言うには、いじめした方はモンペやから保護者には何も言ってないねん」と聞き、いじめた側にどんな指導をしたのか、報告書は適当だし分からないか教頭と校長に確認に行きました。浄閑教諭は「あれはいじめじゃなかった。女子同士のじゃれあいや。Z先生がいじめにしたんや」「うちのクラスの生徒は二度といじめはせえへん。俺はクラスの生徒を信じてる」「モンペに言わんでええようにして保護者との関係を良くしてるんやから俺はすごい」「Yが脅されたラインの画面を、怖かったとか言うて削除してんのが証拠や、あれは精神病のYの捏造や」と自慢していました。私はつきっきりでYさんについていて状況は分からないし、その日は「また担任がいない!」と終礼もせずに生徒を返したらしいし、全く嵌められた気持ちでした。生徒のことまで悪く言うのもたいがい腹が立ちました。
1月末には北海道然別湖に修学旅行に行きました。1年時に投票で行く先を決めましたが、男女で北海道とディズニーランドに分かれ、1票差で決まったので最初から学年団は乗り気では無かったです。3泊4日のうち2日目の夕方、生徒が大浴場に行っていて私は大浴場の見張り番でした。
その時に田中淑子教諭が女子の部屋をマスターキーで開けて見て回っていて、私のクラスの女子の部屋でライターを1つ見つけました。各部屋を周るなどは打ち合わせにありませんでした。夕食の時間にクラスの女子6名が生徒指導部に呼ばれ、おとなしい子3人は返され、少し派手な子3人の持ち物だということにしたそうです。私はその段階で呼ばれ、女子3人と話をして聞き出せと言われ部屋に入れられました。女子3人は、「私たちのだが、ホテルの売店で買った。ビューラーを温めるのに使いたかっただけで現にタバコは持っていない」「お風呂入ってる間に部屋に入ってきてメイクポーチ開けてわざわざ調べたんかよ、キモイ」「同室のおとなしい女子たちは何も関係がない。その子たちには悪いことをした」と話しました。
そのあとに学年の他の担任や主任に知らされたらしく、私がいないと他の担任や生徒が探し回っていて、副担任は何もせずに部屋にいたらしく、「夜7時から8時のクラスレクリエーションでクラスで写真を撮りたかったのになんで担任も女子もいないんだ」と生徒から言われました。
その時間から修学旅行が終わるまで、女子3人は集団から隔離し、私がそちらに付き添うことに田中淑子教諭に決められました。だからそのあとのクラスの様子や学年の様子は知りません。女子3人は、「いつもなんで勝手に生徒指導が動いて、アリス(私のことです)にばっかり最後押し付けて、アリスがかわいそうやろ。せめて最後まで生徒指導の人間がつけよ」「アリスだけでもクラスに返してあげてほしい」と一晩泣いて大声で訴えていました。田中淑子教諭には「Z先生のクラスで喫煙具出たんだから廊下歩いてタバコのにおいがする部屋探してきてください」と全部の廊下を歩いてにおいを探すように言われ歩かされました。田中淑子教諭も同じように廊下のにおいをかいで調べていました。一度、「においがする!」とバーンとドアを開けて男子がびっくりしていました。
次の日のバスで、女子3人のうちのHさんが「これが出席停止扱いならうちは日数たりなくて留年になる」と言い、それを聞いたクラスの生徒たちが騒ぎ始め、「こんなトラップで留年にさせたらみんなで暴れてやる」と進級コールを始め、私から校長に電話をかけて事情を説明しました。クラスの生徒たちも、小樽観光をせずに校長のところに訴えに行っていたようです。結局Hさんは進級になりました。修学旅行中は忙しく、生徒は不安であまり楽しめずに泣いて、大変でした。ライターは1つなのになぜ3人が指導なのか、部屋の鍵を開けてメイクポーチの中まで開けるのは異常なんじゃないかと思います。空港でライターは持ち込めず、ホテルの売店は閉めてもらっていて、凍った湖しかない場所で、本当にホテルの売店で買ったのか疑問がありましたが、よく分からないまま終わりました。不意打ちで勝手に生徒指導が動くから迷惑でした。
以上