裁判年月日  平成30年 9月 5日
裁判所名  山口地裁
裁判区分  判決
事件番号  平29(行ウ)8号
事件名  損害賠償等(人格権侵害)請求事件

原告 甲川X

被告 防府市
同代表者兼処分行政庁 防府市長 A
同訴訟代理人弁護士 中山修身
同訴訟復代理人弁護士 額田康孝
被告指定代理人 W1 W2 W3 W4 W5 W6 


主文

 1  原告の請求をいずれも棄却する。
 2  訴訟費用は,原告の負担とする。

 
 
事実及び理由

第1  請求
 1  処分行政庁が原告に対してなした平成27年11月20日付の戒告処分は無効であることを確認する。
 2  被告は,原告に対し,金100万円及びこれに対する平成27年11月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2  事案の概要
 1  本件は,防府市の職員である原告が,@公務員としての職務を遂行する際に,職務命令に反して,戸籍上の氏と異なる氏を継続的に使用したことにつき,防府市長から平成27年11月20日付けで受けた戒告処分(以下「本件処分」という。)について,同処分が無効であることの確認を求めるとともに,A通称の使用を禁止されたこと等により人格権を侵害され,精神的苦痛を受けたと主張して,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき,慰謝料100万円及びこれに対する本件処分の日である平成27年11月20日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
 2  前提事実(当事者に争いがないか,後掲各証拠により容易に認められる事実)
   (1)  原告(昭和44年○月○日生)は,平成4年4月1日に防府市職員として採用された地方公務員である。
   (2)  上記採用当時の原告の戸籍上の氏は「甲河」であったが,平成28年10月26日,原告は,山口家庭裁判所において,戸籍法107条1項に基づき,氏を「甲河」から「甲川」に変更することを許可する旨の審判(以下「別件許可審判」という。)を受け,同審判は確定し,現在の戸籍上の氏は「甲川」である。なお,原告は,別件許可審判に先立つ平成24年12月ころ,山口家庭裁判所に対し,同旨の許可を求める審判の申立てをしたが,同申立ては,平成25年2月に却下され(以下「別件却下審判」という。),これに対する抗告も同年5月に棄却されている。
   (3)  原告は,防府市a部b課にc係長として在籍中の平成26年4月ころから,職務遂行に際し,自己の呼称として「甲川」姓を使用するようになり,文書の作成や決裁を行う際に「甲川」の印影を顕出する印章を使用して押印するようになった。
   (4)  原告は,平成26年5月9日,上司である同課課長B(以下「B課長」という。)から,職務を遂行する際に戸籍上の氏と異なる「甲川」の氏を使用することを禁止する旨の職務命令(以下「本件職務命令1」という。)を受けた。(乙12,13)
   (5)  原告は,平成26年6月16日,防府市長から,本件職務命令1と同旨の内容の職務命令(以下「本件職務命令2」という。)を受けた。(乙12)
   (6)  原告は,平成26年8月29日,防府市長から地方公務員法(以下「地公法」という。)29条1項1号及び2号の規定により戒告するとの戒告処分(以下「前件処分」という。)を受けた。
 その理由の要旨は,原告が,平成26年4月以降,度重なる職務命令に反し,職務を遂行する際,戸籍上の氏である「甲河」を使用せず「甲川」を使用していることにより,業務の遂行に混乱や支障が生じており,また,精神活動の面から見れば注意力の全てを職務遂行のために用いているとは言い難く,職務専念義務に違反している状態となっている,このような行為は,全体の奉仕者として相応しくないというものであった。
   (7)  原告は,平成27年11月20日付けで,防府市長(処分行政庁)から地公法29条1項1号及び2号の規定により戒告する旨の処分(本件処分)を受けた。(甲1)
 その理由の要旨は,原告が,前件処分以降も,職務を遂行する際に戸籍上の氏である「甲河」を使用せず「甲川」を使用し続け,さらに,平成27年4月以降は「甲川」と記載した名札を使用していることは,職務命令に反するばかりでなく,また精神活動の面からみれば注意力の全てを職務遂行のために用いているとは言えず,地公法第30条,第32条及び第35条に違反する行為であり,全体の奉仕者として相応しくないというものであった。(甲2)
   (8)  原告は,平成27年11月27日,当庁に対し,前件処分の取消し及び無効確認並びに通称名の使用を禁止されたことにより人格権を侵害されたとして,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求める訴えを提起した(当庁平成27年(行ウ)第11号。以下「前件訴訟」という。)。
 前件訴訟の第1審係属中に別件許可審判がなされたが,当庁は,平成29年4月19日,前件訴訟につき,前件処分の無効確認請求にかかる訴えを却下し,その余の請求を棄却する旨の判決を言い渡し,原告は同判決のうち前件処分の取消請求を除く部分について控訴した(広島高等裁判所平成29年(行コ)第10号)が,同年10月27日に控訴棄却の判決が言い渡され,前件訴訟判決は確定した。
   (9)  原告は,平成28年1月15日付けで,防府市公平委員会に対し,本件処分に対する不服申立てをしたところ,同委員会は,同年11月8日付けで原告の申立てを棄却する裁決をした。(甲6)
   (10)  平成29年5月1日,原告は本件訴訟を提起した。(顕著な事実)
   (11)  本件に関連する法令等の定めは別紙のとおりである。
 3  主な争点
   (1)  本件戒告処分無効確認の訴えの適法性(本案前の主張)(争点1)
   (2)  本件処分に違法事由(取消事由を含む無効事由)があるか
   ア 職務命令1及び2の適法性(懲戒事由の有無)(争点2)
   イ 本件処分につき裁量逸脱の有無(争点3)
   ウ 本件処分につき手続的違法の有無(争点4)
   (3)  国家賠償請求の当否(争点5)
 4  争点に対する当事者の主張
   (1)  争点1(本件処分無効確認の訴えの適法性(本案前の主張))について
   ア 被告の主張
 (ア) 原告は行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)36条所定の「当該処分又は裁決に続く処分により損害を受けるおそれのある者」に当たらない以上,同条所定の「当該処分若しくは裁決の存否又はその効力の有無を前提とする現在の法律関係に関する訴えによって目的を達することができない」との消極的要件を満たさない限り,処分の無効等確認の訴えを提起することができない。
 原告は,本件許可審判により,その氏を「甲川」に変更することを許可され,戸籍上の氏が「甲川」に変更されたのであるから,本件処分に続く処分の原因となり得る状況は消滅しており,無効確認の訴えは,上記の消極的要件を満たさず,不適法である。
 (イ) また,抗告訴訟としての取消訴訟による方が,実体的要件において「重大明白な瑕疵」に限定される無効確認訴訟よりも直截的であるから,無効確認訴訟を選択することは補充性を欠き,不適法である。
   イ 原告の主張
 争う。
   (2)  争点2(職務命令1及び2の適法性(懲戒事由の有無))について
   ア 原告の主張
 (ア) 「甲川」は原告の通称であり,防府市にはその職員に対し通称名の使用を禁止する規程等がない以上,被告において根拠もなく原告に対しその使用を禁止,制限することは,原告の人格権を違法に侵害するものといえる。
 (イ) 被告は,通称の使用が職員の同一性の把握を阻害すると主張するけれども,職員が婚姻等により氏を変更した場合には,戸籍を再確認することなく改姓届の提出のみで同一性を把握していることからしても,通称の使用が職員の同一性の確保を阻害することはない。
 また,原告が通称として一貫して使用し続けている「甲川」姓は,戸籍上の氏と同じく「こうかわ」と音読するものであって,漢字表記が異なるにすぎないこと,防府市役所には原告以外に「こうかわ」と音読する氏の者は在籍していないこと,原告は同僚らに対し,通称として「甲川」姓を使用する旨を説明していることから,同一性に齟齬が生じたことはなく,戸籍上の氏と異なる氏を使用することについて市民からの苦情もない。
 原告は,山口県の旧姓使用の基準に準じて,公務員の身分関係を規定するもの,職員の権利・義務に関するもの,直接公権力の行使に係るものについては戸籍名を使用しており,被告は全面的に通称名の使用を禁止するのではなく,職員の権利を侵害しない配慮が必要であった。
   イ 被告の主張
 (ア) 原告の主張(ア)は否認し争う。被告が職員に対し,戸籍上の氏名以外の呼称の使用を禁止していることは,市職員服務規程等から明らかである。
 被告の職員として採用された者は,速やかに,防府市職員服務規程第1号様式の身上調書を提出しなければならず(同規程4条1項),氏名・本籍・住所等に異動を生じたときは,第3号様式の履歴事項変更届により届け出なければならないとされている。なお,同様式においては,履歴事項の変更事由の一つとして「改姓」が掲げられている。
 採用時に提出を義務付けられている身上調書には,本籍や生年月日の記載が必要とされているほか,身上調書の提出に先立って提出を求められる入所承諾書(防府市役所に就職することの承諾書)には住民票の添付が必要であり,被告はこれらにより職員の戸籍上の氏名を確認しているのであって,身上調書や履歴事項変更届に記載すべき氏名が戸籍上の氏名であり,被告が職員の氏名を戸籍上の氏名によって把握しようとしていることは明らかである。
 (イ) 被告が戸籍上の氏名によって職員の氏名を把握している理由は以下のとおりであり,合理性を有する。
 すなわち,被告は職員の所属・地位を決め,勤務状況を把握し,評価を行い,処遇や給与を決めるという事務を反復継続して行うところ,これらの事務を適切,迅速,確実に行うためには,被告において,当該職員の同一性を把握することが必要不可欠である。また,各職員がその職務を適切,迅速,確実に遂行するためには,職員相互間においても,個別具体的な地位・所属,権限の帰属主体が明確であることが必要である。さらに,各職員が職務上作成した文書の作成者を明らかにしておくことは,将来にわたっても重要となる。そうすると,職員の同一性把握の手段としては,高い公証力を持ち,その変更について戸籍法107条により家庭裁判所が「やむを得ない事由」があるものと認めてこれを許可し,その旨の届出が行われることを要する戸籍上の氏名により把握することに合理性があるといえる。
 原告も,平成4年4月1日に被告に採用された際,上記各規程に基づき,身上調書に当時の戸籍上の氏名を記載した身上調書を被告に提出し,被告は,上記戸籍上の氏名により原告の同一性を把握していたのであるから,原告が職務の遂行にあたり戸籍上の氏名と異なる氏名を使用した場合,原告が作成した文書であると判断することができず,被告の職務に支障及び混乱を来すことは明らかである。
 (ウ) 他方,原告には「甲川」姓を使用すべき客観的合理的理由はなかった。
 (エ) したがって,職務命令1及び2には十分な必要性及び合理性があり,違法性はない。
   (3)  争点3(本件処分につき裁量逸脱の有無)について
   ア 原告の主張
 被告は,通称名を使用できる環境を整える配慮もせず,本件処分を行った。
 また,「防府市職員の非違行為に係る懲戒処分等の基準」によると,戒告処分は「勤務時間の始め又は終わりに繰り返し勤務を欠いた場合」や「勤務時間中に職場を離脱して職務を怠り,公務の運営に支障を生じた場合」などに科される処分であり,これらと比較すると戸籍と異なる氏を使用したことに対する処分としての本件処分は,不当に重く,裁量権を逸脱するものというべきである。
   イ 被告の主張
 (ア) 原告は,戸籍上の氏名以外の氏名の使用を禁ずる職務命令1及び2並びに前件処分のいずれにも従わずに,職務上取り扱う文書に「甲川」姓の押印をして決裁等を行うことを繰り返した。
 原告の上位決裁権者であるB課長は,b課から他部署へ回される文書について,先に押印された「甲川」の印影上に同課長の印を押捺して原告の決裁印を抹消した。
 他方で,b課では原告が「甲川」姓の押印をして決裁を行うことを回避するため,同課の課長補佐が決裁を担当することとなり,これらの業務の負担のため,職員の他の業務に支障が生じた。
 また,b課には「甲川」の印影による原告の決裁印が抹消されていない文書も多数保管されており,今後,同印影にかかる決裁担当者について同一性の確認が困難となることが予想される。
 (イ) 被告は,原告が「甲川」姓を使用する理由として誤読されることが多い旨を訴えていたことから,戸籍上の氏名に振り仮名を付することを提案したが,原告は,この提案にも応じず,前件処分後も「甲川」姓の使用を繰り返すなど職務命令に従わない意思は強固であり,職務専念義務違反があるとも評価される状況にあった。
 (ウ) 以上によれば,原告には,職務命令違反及び職務専念義務違反の懲戒事由があり,本件処分に必要性及び合理性があることは明らかである。
   (4)  争点4(本件処分の手続的違法の有無)について
   ア 原告の主張
 原告は,被告に対し,平成25年3月に職務において通称を使用することの承認を求めたが,被告はその許否の判断をせず,結論を出す時期について原告に連絡することもしないまま約1年間放置した。原告は,平成26年3月に再び通称の使用を申し出て,使用するに至った。
 通称使用が処分を検討するほどの非違行為であるなら,当初の申出から1年間も放置する理由はなく,すぐにでも回答できたはずである。1年間の不作為の期間を経てなされた本件処分は無効である。
 また,前件処分に対して不服申立てが行われ,前件処分の効力が未だ確定していない以上,その後の通称使用に対してさらに処分を科することは許されない。
   イ 被告の主張
 争う。
   (5)  争点5(国家賠償請求の当否)について
   ア 原告の主張
 (ア) 人格権侵害
 通称の使用は,国民の生活に広く根付いており,それを制限することは人格権の侵害にあたるところ,被告は,「甲川」姓の印章による原告の決裁印を抹消したほか,原告が人事上の内部書類である「個人目標管理シート」に「甲川」姓を記載したことのみを理由に,その受領を数年にわたり拒否するなどして,原告の通称使用を制限し,原告の人格権を侵害した。
 (イ) パワーハラスメント
 被告は,前記のとおり,原告が作成した「個人目標管理シート」に「甲川」姓を記載したことのみを理由に,その受領を数年にわたり拒否するなどしたほか,原告に対し,職員名簿や座席表に振り仮名を付した戸籍上の氏を記載することを提案をした際に,通称使用に対して懲戒処分が科されることを仄めかした。
 これらの行為は,職場の地位・優越性を利用したパワーハラスメントである。
 (ウ) 個人情報の流出
 被告は,原告が平成26年3月に通称名の使用を申し出た際に,許否の判断資料として提出させた別件却下審判の審判書及び抗告審の却下決定の決定書各写し(以下「別件却下審判書等」という。)を,原告の許可なく,上記目的の範囲を越えて,前件訴訟において書証として提出し,個人情報を流出させ,原告のプライバシー権を不当に侵害した。
 (エ) 損害
 上記(ア)ないし(エ)により原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料額は100万円が相当である。
   イ 被告の主張
 (ア) 人格権侵害の主張は争う。原告は,「甲河X」という戸籍上の氏名で被告に採用されたのであるから,戸籍上の氏名以外の呼称の使用を禁止しても人格権侵害にはあたらない。
 (イ) パワーハラスメントの主張については否認ないし争う。
 (ウ) 個人情報の流出
 争う。被告は,原告に対し,個人情報を取り扱う事務の目的を明確にした上で原告から別件却下審判書等を受領しているのであり,防府市個人情報保護条例6条に反していない。
 また,被告は,原被告間の訴訟において別件却下審判書等を証拠として提出したにすぎず,第三者との訴訟において提出したわけではないから,防府市個人情報保護条例8条1項の「外部提供」にはあたらない。
 仮に同条例8条1項の「外部提供」にあたるとしても,同条例8条1項6号の「国に提供する場合であって国が個人情報を利用することにつき相当な理由があり,かつ,本人の権利利益を不当に侵害するおそれがないとき」に該当する。
 (エ) 損害額については争う。
第3  当裁判所の判断
 1  争点1(本件処分無効確認の訴えの適法性(本案前の主張))について
   (1)  行訴法36条にいう「当該処分若しくは裁決の存否又はその効力の有無を前提とする現在の法律関係に関する訴えによって目的を達することができない」場合とは,当該処分に基づいて生ずる法律関係に関し,処分の無効を前提とする当事者訴訟又は民事訴訟によっては,その処分のため被っている不利益を排除することができない場合はもとより,当該処分に起因する紛争を解決するための争訟形態として,当該処分の無効を前提とする当事者訴訟又は民事訴訟との比較において,当該処分の無効確認を求める訴えの方がより直截的で適切な争訟形態であると見るべき場合をも意味するものと解するのが相当である(最高裁平成4年9月22日第三小法廷判決・民集46巻6号1090頁参照)。
   (2)  これを本件についてみると,原告は,現在も継続して被告の職員として地方公務員たる地位を有しているから,本件戒告処分により,今後,人事評価上の不利益を被る可能性や,懲戒処分の加重事由とされる可能性があることに照らすと,本件処分の無効確認を求めるにつき法律上の利益を有し,処分の無効を前提とする当事者訴訟又は民事訴訟との比較において,処分の無効確認を求める訴えの方がより直截的で適切な争訟形態であると認められる。
   (3)  なお,行政処分取消訴訟の出訴期間内に提起された行政処分無効確認請求は,その取消請求を含むものと解すべきであるところ(最高裁昭和32年(オ)第18号同33年9月9日第三小法廷判決・民集12巻13号1949頁参照),本件訴訟は取消訴訟の出訴期間内(本件処分の不服申立に対する裁決がなされた平成28年11月18日から6か月以内)に提起されているから,本件処分につき,無効事由としての重大かつ明白な違法の有無のみならず,取消事由としての違法の有無についても判断すべきこととなる。
 2  争点2(職務命令1及び2の適法性(懲戒事由の有無))について
   (1)  認定事実
 前記前提事実に証拠(甲1,2,6,乙1ないし7,9ないし16(枝番のあるものは枝番を含む。),原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すると,以下の事実が認められる。
   ア 原告は,平成4年4月1日付けで防府市役所に職員として採用されるに先立ち,平成3年9月24日付けで,「平成3年度防府市職員採用候補者名簿に登載されましたので防府市役所に就職することを承諾します。」と記載された入所承諾書に当時の戸籍上の氏名である「甲河X」と署名し,住民票を添付して被告に提出した。
 原告は,防府市役所に職員として採用された際,防府市職員服務規程4条に基づき,氏名欄に「甲河X」と記載した身上調書等を被告に提出し,地公法31条及び職員の服務の宣誓に関する条例2条に基づく宣誓書に「甲河X」と署名した上で,服務の宣誓をした。
 原告は,採用時から,防府市職員服務規程5条2項に基づき,勤務時間中は,「甲河X」と記載した名札を着用し,住所を変更する際には,防府市職員服務規程4条2項に基づき,「甲河X」と署名した履歴事項変更届を提出した。
   イ 原告は,平成24年4月1日から平成27年3月31日まで防府市a部b1課(平成26年4月1日改称後はb課)に在籍し,平成26年4月以降はc係長として勤務していたところ,平成25年3月ころ,職員課を通じて,被告に対し,職務遂行に際して使用する原告の呼称を「甲川X」とすることの承認を求めた。これに対し,同課の課長補佐は,すぐに「甲川」姓を使用することは無理である旨回答した。また,同じ頃,原告は,「甲川」姓による名刺を作成して使用することの当否についても職員課を通じて質問したが,同課長補佐は関知しないという趣旨の回答をした。
 その後,原告は,職務遂行に際し自己の呼称として「甲川」姓を使用することもあったが,平成26年3月28日頃,改めて職員課を通じて被告に対し,職務遂行に際して「甲川」姓を使用することの承認を求めた。職員課の課長補佐は原告に対し,検討するから待つようにと回答し,職員課において,裁判例の調査や,法務推進課や顧問弁護士への相談を行って検討した。
 原告は,平成26年4月から,業務において「甲川」の印影を顕出する印章を使用して決裁等を行うようになった。
 職員課では,同年5月頃,「甲川」姓の使用により原告の同一性の把握に問題が生じるという結論を出し,同月9日,B課長に対し,甲川姓の使用についての原告の申し出に対し,戸籍上の氏名と異なる氏名を職務上使用することは認められず,戸籍上の氏名を使用するようにとの回答をし,これを原告に伝えるよう指示した。B課長は,同日,原告に対し,口頭で,「甲川」姓を使用することにつき職員課から注意を受けたことを伝えるとともに,戸籍上の氏である「甲河」を使用し,「甲川」姓は使用しないよう職務命令1を出した。しかし,原告は,その後も「甲川」姓の印章を使用した。
   ウ 職員課の課長補佐は,平成26年5月12日,B課長や職員課長の同席の下,原告と面談し,戸籍上の氏名と異なる氏名を使用することは,同一性の把握に問題が生じるから認めることができないと伝えた。これに対し,原告が,自分の名前が正しく呼ばれることがなく,とにかく不愉快であると訴えたため,職員課の課長補佐は,職員名簿や庁内電話帳に振り仮名を振ることで対応することができないのか尋ねたが,原告は,それでは不十分で,職務上「甲川」姓を使用したいと述べた。職員課の課長補佐は,原告に対し,戸籍上の氏名を使用することは職務命令であり,これに反すると最終的には懲戒処分も検討せざるを得ない旨を告げると,原告は,処分してもらって結構である旨返答した。
 面談後,被告は,B課長を通じて,原告に対して再度職務上「甲川」姓を使用することがないように伝え,B課長に対してはその後の経過を職員課に報告するように指示した。
 B課長は,改めて原告に対して,もう一度考えてほしい旨伝えたが,原告の意向が変わることはなく,その後も「甲川」の印章を使用して,支出負担行為決議書,支出命令書,物品購入・修繕決議などの決裁文書や対外的な請求書,伺い文書に「甲川」姓の決裁印を押捺した。
 原告の上位決裁権者であるB課長は,b課から他部署へ回される文書で,「甲川」姓による決裁では他部署での処理ができないとされた文書等について,先に押印された「甲川」の印影上に同課長の印を押捺して原告の決裁印を抹消することとしたが,このような処理を行った決裁は数百件に上った。
 また,原告が「甲川」姓の押印をして決裁を行った結果,その後の他部署での処理に支障が生じることがあったため,本来原告が押印する書類について,b課の課長補佐が決裁を行うという取り扱いが行われるようになった。
 他方,原告は,山口県が策定した旧姓使用規定を参考にして,自らの判断で,原告が人事考課者になる書類などについて戸籍名を使用することもあった。
   エ 原告が職務命令1に従おうとしないことから,その後職務命令2が出され,職員課の課長補佐から原告に対し,原告の行為は地公法上の職務専念義務に違反する行為に該当する可能性があることも指摘されたが,原告はその後もなお「甲川」姓の使用を継続した。
 平成26年7月頃,原告は,被告の人事考課制度で定められた個人情報目標管理シートに「甲川」姓を記載し押印して作成した。職員課の課長補佐は,同書面を受け付けられないとして原告に返却したが,原告は変更するつもりがない旨申し立てた。職員課はB課長を通じて,原告に氏名と押印を修正して提出するように伝えたが,原告はこれに応じなかったため,被告は同書面を受領しなかった。
   オ 平成26年8月に開催された被告の分限懲戒審査委員会において,原告の職務命令違反及びそれにより業務上支障や混乱が生じていること,原告の行為は,地公法の職務専念義務にも違反する行為であることから,職員の非違行為に係る懲戒処分の基準の別表第1のうち,「一般服務違反関係」に該当し,「職務怠慢・注意義務違反」に照らし,減給・戒告のうち,戒告を選択することとされ,同月29日付けで前件処分がなされた。
 原告は,前件処分を不服として防府市公平委員会に対して不服申立てを行い,同委員会は,平成27年6月9日付けで前件処分に対する不服申立てを棄却する裁決をした。
   カ 原告は,前件処分後も,「甲川」姓を使用し続けたほか,平成27年4月以降は名札に「甲川」のシールを貼って着用したり,業者等に対するファックスに「甲川」と記載して送信するなどしていたところ,同年11月20日付けで,本件処分を受けた。
   (2)ア  前記のとおり,被告においては,採用した職員を特定,識別する手段としては戸籍上の氏名を用いていると認められるところ,我が国において戸籍は,各個人の民法上の身分行為及び身分関係を公簿上に明らかにしてこれを一般的に公証する制度であり,戸籍に記載された氏名は公証力の高いものであること,被告は,採用した職員について,その所属・地位の決定,勤務状況の把握及び評価,処遇や給与の決定等の事務を反復,継続して行うべき立場にあるから,その事務を適切・迅速・確実に行うためには当該職員の同一性を把握することが必要不可欠であることからすると,職員の特定・識別手段として戸籍上の氏名を用いることには合理性があるといえる。
 また,職員の同一性の把握は,被告と職員との関係のみならず,職員相互の関係においても,適切,迅速,確実な職務の遂行のため,個別・具体的な地位・所属,権限が帰属する主体を明らかにするという意味でも正確性が求められる事項であるから,戸籍上の氏名を用いることに合理性があるといえる。
    イ  本件においても,原告は,本件処分当時の戸籍上の氏名である「甲河X」により,被告に採用され,前記のとおり「甲川」姓を使用し始めるまで20年以上にわたり,戸籍上の氏名により職務を遂行していたのに対し,「甲川」姓は,本件職務命令1及び2が行われた当時,それによって原告を識別・特定し得る程度に社会生活上周知されて「通称」と評価し得る状況に至っていたとは認められないから,原告の公務員としての職務遂行にあたり,「甲川」姓を使用することは,職務の適性迅速な処理を阻害することは明らかというべきであり,また,戸籍上の氏と異なる呼称を使用すべき事情も認められないから,職務命令1及び同2はいずれも必要性,合理性を有する適法なものであったということができる。
    ウ  原告は,職務命令1及び同2が原告の人格権を侵害する旨主張する。しかしながら,一般に,氏名が個人の人格の象徴であり,人格権の一内容を構成するものとして,他人からその氏名を正確に呼称されることにつき人格的な利益が認められるとしても,原告の主張は,その氏である「甲河」を正確に呼称される権利ではなく,誤読されること等を理由に,戸籍上の氏と異なる氏「甲川」を使用する権利ないし利益であるところ,前記のとおり,「甲川」姓は未だ「通称」といえる程度に原告を識別・特定し得る機能や社会周知性を有するに至らず,また,旧姓(婚姻・縁組等の前の氏)のように,過去に個人を識別・特定し得る機能や社会周知性を有し,当該個人が築いた信用や評価等の基礎となっていたとも認められない以上,当該呼称につき法律的な保護の対象となる人格的な利益を認めることはできない。
 3  争点3(本件処分につき裁量逸脱の有無)について
   (1)  公務員に対する懲戒処分は,公務員としてふさわしくない非違行為がある場合に,その責任を確認し,公務員関係の秩序を維持するために科される制裁である。このような懲戒処分制度の趣旨に照らすと,懲戒権者には,懲戒事由に該当すると認められる行為の原因,動機,性質,態様,結果,影響等のほか,当該公務員の当該行為の前後における態度,懲戒処分等の処分歴,選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等の諸般の事情を考慮して,懲戒処分をすべきかどうか,懲戒処分をする場合にいかなる処分を選択すべきかを決するについての裁量権が認められ,当該処分が社会観念上著しく妥当を欠き裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用したと認められる場合に限りこれを違法と判断すべきものである(最高裁昭和47年(行ツ)第52号同52年12月20日第三小法廷判決・民集31巻7号1101頁参照)。
 懲戒処分には,戒告,減給,停職及び免職の4種類があるところ(地公法29条1項),本件処分の内容は最も軽い戒告処分であり,前記認定のとおりの本件処分に至る事実経過に照らし,本件処分が社会観念上著しく妥当を欠き裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用したとまでは認められない。
   (2)  原告は,被告が通称名を使用できる環境を整える配慮もせず,本件処分を行い,また,本件処分は,被告が行った他の処分に比して不当に重いと主張するけれども,前記のとおり,被告においては,職員名簿等に振り仮名を振るなどの提案をしていたこと,「甲川」姓を使用することによる被告の業務に支障が生じていたこと,度重なる命令や指導にもかかわらず「甲川」姓の使用を継続していたこと,前件処分後にも「甲川」姓の使用を継続し,その範囲も拡大していたことからすれば,職務の怠慢又は注意の欠如により,公務の運営に支障を生じさせた場合と同程度の非違行為と評価することができ,不当に重い処分とまではいえず,原告の上記主張を採用することはできない。
 4  争点4(本件処分につき手続的違法の有無)について
   (1)  原告は,平成25年3月に「甲川」姓の使用を申し出たにもかかわらず,1年間にわたって対応が行われなかったこと,前件処分の不服申立てが確定しないうちに同内容の本件処分がなされたことから本件処分に手続的瑕疵があり無効である旨主張する。
   (2)  しかしながら,前記認定のとおり,平成25年3月の申出に対しては,当時の職員課課長補佐から,すぐには無理である旨の回答がなされており,その後に原告が戸籍上の氏と異なる氏を使用していることが明らかになり対応を要する状況に至ったのは平成26年以降であったから,被告において,原告の申し出に対する対応を不当に懈怠していたとは認められない。
 また,地公法上の懲戒処分は,任命権者が職員の一定の義務違反に対し道義的責任を問う処分であり,それによってその地方公共団体における規律と公務遂行の秩序を維持することを目的とするものであることからすれば,懲戒事由が存する場合には任命権者は懲戒処分ができるのであって,懲戒処分の時期については任命権者に委ねられていると解するべきである。そして,前件処分に対して取消訴訟を提起するか否かは原告の判断に委ねられた主観的事情にすぎないのであるから,これにより任命権者の懲戒処分が制限されることにはならないと解するべきである。
 したがって,これらの原告の主張を採用することはできない。
 5  以上によれば,原告には,地公法30条,32条及び35条違反の事実が認められ,同法29条1項1号及び2号の懲戒事由に該当し,懲戒処分の必要性及び合理性があるから,本件処分は適法であり,本件処分について無効事由及び取消事由はいずれも認められない。
 6  争点5(国家賠償請求の当否)について
   (1)  公務員による公権力の行使に国家賠償法1条1項にいう違法があるというためには,公務員が,当該行為によって損害を被ったと主張する者に対して負う職務上の法的義務に違反したと認められることが必要である(最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁,最高裁昭和61年(オ)第1152号平成元年11月24日第二小法廷判決・民集43巻10号1169頁,最高裁平成13年(行ツ)第82号,第83号,同年(行ヒ)第76号,第77号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁等参照)。
   (2)  人格権侵害について
   ア 本件処分当時,「甲川」姓が未だ通称や旧姓等と同程度の識別・特定機能や社会周知性を有していなかったこと,したがって原告が「甲川」姓を使用する利益が未だ人格権と評価し得る状況に至っていなかったことは前記判示のとおりであり,原告が職務命令1及び2に従わずに職務上「甲川」姓を使用したことに対して被告職員が行った対応は,職務命令違反の行為を是正するための措置として適法なものであったということができる。
 したがって,人格権侵害についての原告の主張は採用できない。
   (3)  パワーハラスメントについて
   ア 職場のパワーハラスメントとは,同じ職場で働く者に対して,職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に,業務の適正な範囲を越えて,精神的・身体的苦痛を与える行為又は職場環境を悪化させる行為をいうものと解され,パワーハラスメントに該当するか否かは当該行為の動機,目的,内容,態様,時期・時間,場所,周囲の状況,当事者の人間関係などに基づき総合的に判断するのが相当である。
   イ これを本件についてみると,原告の「個人目標管理シート」が被告に受理されなかったのは,前記認定のとおり,職務遂行に際し戸籍上の氏名と異なる呼称を使用することが認められていない状況において,原告が人事上の書類でありその職務と関連する「個人目標管理シート」に「甲川」姓を使用し,修正を求められたにもかかわらずこれを拒否した結果であること,「個人目標管理シート」の不提出によって原告が具体的な不利益を受けた事実が認められないことなどの事情を総合すると,業務の適正な範囲を逸脱するものとはいえない。
   ウ また,「甲川」姓の使用を止めない原告に対し,誤読を防止するために戸籍上の氏名に振り仮名を付することなどを提案をした職員課の課長補佐やB課長が,原告に対し,懲戒処分を受ける可能性を示唆した行為についても,戸籍上の氏名と異なる呼称を使用することが認められていない状況において,原告が「甲川」姓の使用を継続した場合に懲戒処分を受ける可能性を伝え,再考を促したものであり,その目的及び行為態様とも業務の適正な範囲を逸脱するものとは認め難い。
   (4)  個人情報の流出について
   ア 前掲証拠によれば,原告は,平成26年3月に「甲川」姓の使用を被告に申し出た際,職員課の課長補佐から別件却下審判等を参考のため提出してほしいと求められてこれに応じたこと,その後,被告が前件訴訟において,別件却下審判等を書証として提出したことが認められる。
   イ 訴訟資料,証拠資料等の提出が基本的に訴訟当事者の権能と責任に委ねられている訴訟手続において,訴訟当事者には,事実や証拠を自由に提出し,十分な攻撃防御を行う機会が保障されなければならず,訴訟における主張立証活動は,通常の言論活動よりも厚く保護される必要がある。
 したがって,訴訟活動において相手方当事者のプライバシーや名誉を損なう可能性のある行為がなされたとしても,それが当該事件の争点と関連し,訴訟遂行上の必要性があり,その態様および方法等も相当と認められる場合には,正当な訴訟活動として違法性が阻却されると解するのが相当である。
 これを本件についてみると,別件却下審判等を書証として提出する行為は,被告にとって,争点と関連する,訴訟遂行上の必要性がある立証活動であり,その態様および方法等も相当と認められるというべきである。
 したがって,上記訴訟行為は正当な訴訟活動として違法性が阻却されるというべきであるから,不法行為の成立を認めることはできない。
   (5)  以上によれば,被告職員が原告に対し負担する職務上の法的義務に違背して原告に損害を加えたとはいえないから,被告に賠償責任があるとする原告の主張には理由がない。
 7  よって,原告の請求はいずれも理由がないからこれらを棄却することとし,主文のとおり判決する。
 山口地方裁判所第1部
 (裁判長裁判官 福井美枝 裁判官 橋本耕太郎 裁判官 清水萌)